ブックタイトルふるさと会報第62号
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ふるさと会報第62号
松村吉太郎氏(写真提供:天理教道友社)「建学の精神」が宿る母校の取り組み、クラブ・サークル等の活動、また縁ある建物や人を写真とともに紹介する。天理教の教えが日本国中に広がりゆく草創期に、中山眞之亮初代真柱様を支え、各方面に奔走し、教団組織や制度の整備、また活動の推進に精魂を尽くした先人のなかに、松村吉太郎氏がいた。明治、大正、昭和初期の激動の時代、困難な状況にあって高安大教会初代会長として教会の設立、発展に努め、また天理教教会本部の本部員として教団活動全体を指揮した、まさに“元勲”と呼ぶにふさわしい一人であろう。その松村氏の教団史に残る活躍の代名詞が、天理教の教勢伸展の一大転機となった教祖40年祭活動であった。この年祭活動において目標に掲げられたのは、教勢の「倍加運動」の提唱、もう一つは「世界隅から隅まで」との神言により示された海外布教である。松村氏自身、初代の韓国布教管理者、また満州布教管理者を歴任してきた天理教の組織的海外布教のさきがけである。この海外への更なる発展の使命は、特に天理教青年会に託された。大正13年10月、当時青年会顧問であった松村氏は、「青年会の発展と其の使命」と題する訓話で、「…私は御教祖の御豫言から考へ、又本教の實際から考へて、海外布教こそ最も靑年会に相應しい事業であり、活動であると思ふのであります。…海外布教は、荒木棟梁※たる靑年の仕事として、最も適當なる活動の舞臺であらうと思ふのであります。…所で當面の準備の問題でありますが、是には種々研究を要することも澤山あるのであります。又外國語を勉強せしむる様な施設もせねばなりません。」と、青年会の奮起を促し、外国語学校の設立をも示唆している。この松村氏の檄を受けた天理教青年会では、教内の海外布教熱の高まりを背負って教祖40年祭活動に奉仕すべく、新会長に就任直後の創設者・中山正善二代真柱様を中心に、その活動の組織的な第一歩として、天理外国語学校の創立を企画した。大正14年1月、創設者は青年会幹部らに対し、「自分としては、この際、外国語学校を創立して40年祭にお供えするのが、教内現在の大勢からいっても、青年会としても、最も適当なことと思うが、どうだろうか」と提案。直ちに賛同を得て、具体案が検討されることとなった。かくして、若き創設者を中心に外国語学校創設の構想が練られ、連日連夜、活発な議論が展開された。“作戦本部”は、大阪高等学校に通う創設者の勉強室であった大阪教務支庁内の「若江の家」(現在の創設者記念館)。大正14年1月30日の記録には、早や4人の青年会役員を大阪外国語学校に派遣し、校長に外国語学校創立計画を相談し、意見を求めたことが記されている。このほか、在京中の幹部には、東京外国語学校の模様や授業時間などを調べさせるなど、東京、大阪両外国語学校を参考にしたことが随所にうかがえる、当時は官立の外国語学校はこの両校しかなく、私立は一校もなかった。かくて同年2月10日、学則その他の書類を整え、奈良県庁に「天理外国語学校設立認可申請」が提出され、2月17日付で同知事より設立認可の指令を受けた。県庁に書類を持参したのは、奇しくも当時、天理教教学部長を務める松村吉太郎氏であった。松村氏が青年会への訓話で外国語学校創設の必要性を説いてより設立認可まで僅か4ヵ月。海外布教という大きな理想に燃えた教内のエネルギーの結実が、本学の元一日である。いまも創設者記念館内に立てば、創設者を中心とする青年会幹部連の熱誠が充満するかのように感じ、青雲の志が胸に迫りくる。(広報部宮田裕生)※荒木棟梁…「あらきとうりょう」。大工棟梁の一種で、山から荒木を伐り出す棟梁。つまり、まだ教えの伝わらない所へ出かけて行って布教に挺身する者の意。このパイオニアとしての意気と熱こそ天理青年の本領であるという自覚から、天理青年の代名詞として使われるようになった。当日青年会幹部の一人であった上原義彦氏は「あらきとうりょうは教語であるが、まことに含蓄の深いお言葉である。この教語の概念を広められたのは、松村吉太郎先生だった」と感慨深く語っている。教祖40年祭神苑の様子(写真提供:天理教道友社)ふるさと会報第62号11